ハンバート友幸の庭

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「ウォールデン 森の生活」ソロー|自給自足生活を描いた古典

こんにちは友幸です。

 

小屋で暮らし自然の素晴らしさを説いた古典であるヘンリー・D・ソローの「ウォールデン 森の生活」を紹介するよ。

ヘンリー・D・ソローについて

ヘンリー・D・ソローは19世紀のアメリカの作家だ。

マサチューセッツ州コンコードの生まれで、ハーバード大学を卒業後に地元に戻り、教師や測量の仕事をしたあとに池の近くに小屋を建てて自給自足の生活を送った。

 

ソローといえば「小屋を建てて自然の中で自給自足で生活した」というイメージが強い。

実際にその通りなのだが、本を読んでみると多少そのイメージが変わった。

 

ソローは一生を自作の小屋で暮らしていたわけではなく、小屋で過ごしたのは28歳から2年2ヶ月の間だけで、その後は家族の元に戻っている。

また小屋を建てたウォールデン池のほとりは一番近い家から1マイル(約1.6キロ)離れた人里離れた場所にあるが、家族の家から2キロほど離れた場所にある。

 

小屋を建てて自然の中で暮らすというと「家族や友人の交流を絶って、誰も知らない土地で誰とも関わりを持たずに暮らす」みたいなイメージを勝手に持っていたが別にそういうわけではないようだ。

 

ただ、ハーバード大学を卒業したあとに定職につかずに日雇いで働いていたことから、コンコードの人から見ればかなり「変わり者」だと思われていたことは想像に難くない。

「ウォールデン 森の生活」とは

「ウォールデン 森の生活」は、今から160年以上前の1854年に出版された本だ。

日本が江戸時代末期の頃で、ペリー来航(1853年)の翌年に出版されている。

 

ソローは28歳の時にコンコードのウォールデン池のそばに丸太小屋を友人たちと建てて、そこで2年2ヶ月の間自給自足の生活を送った。

その時の出来事や経験、ソローの経済や自然への考え方などをまとめた内容となっている。

 

「ウォールデン 森の生活」が書かれた当時は産業化が進んでいた時代だ。

ソローが暮らしていたウォールデン池のそばにも、線路が開通していた。

 

ソローは自然や素朴なものを好んでいたため、文明社会を批判する立場をとっていた。 

本の中でも、アダム・スミスの提唱する「分業」や、当時アメリカ全土に張り巡らされた鉄道に対する批判的な考え方がいくつか書かれている。

 

日本では複数の出版社から翻訳されて、文庫本が上下巻で発売されている。

わたしが読んだのは小学館文庫から2016年に発売されている新しい翻訳本になる。

実は読みやすい

「ウォールデン 森の生活」有名な古典ということもあり、なんとなく小難しそうなイメージがあってなんとなく敬遠してしまっている人も多いのではないだろうか。

わたしもその口で、いつか読もう読もうと思っていたが読む機会がなくて後回しにしていた。

 

しかし実際に読んでみると非常に読みやすく、訳のわからない難解な哲学書のようなものではない。

ギリシャ神話や孔子、シェイクスピアなど当時にすでに古典となっていた文学からの引用も多いが、ソローが生活で感じたことを言葉にしているので読みやすい。

 

主に山小屋で暮らしていた時にソローが書いた日記から構成されているというのも読みやすい要因だろう。

 

ソロー自身も冒頭でこの本は自分が感じたことを語っているのでわかりやすい内容になっていると話している。

私のこの本は、おそらく、学校では物わかりが悪いとされている学生にも、とてもわかりやすい内容になっています。そうではない読者には、無理せずわかるところだけを受け入れてくださるよう、お願いします。

労働は苦行、みんな働きすぎ

「ウォールデン 森の生活」は複数の章で構成されているが、一番最初に語られるのが「経済」についてだ。

ソローは文明社会に対して批判的な考えを持っていたため、文明化によって被る不利益について多くを語っている。

 

まず最初に、世間体とは何かを考える必要があると説き、周囲の人々が毎日行っている労働は「苦行にしか見えない」と書かれている。

あなたの外面が作る最悪のありさまは避けられないのか、改善の余地はないかを検討したいのです。(中略)町のあらゆる場所、商店、事務所、農場を含む至るところで、人々がじつにさまざまな、驚くべきやり方で、苦行と見える労働に励む姿を目にしました。

 宗教において修行僧が修行のために苦行を行うことがあるが、周囲の人が行っている労働は自身の意志とはほとんど関係がなく、修行の苦行よりもはるかに厳しい内容であると語る。

難行苦行は自ら進んで行うもので、私がコンコードで毎日のように目にする労働に比べたら、驚くことでも信じがたいことでもありません。

 ヘラクレスの12の「大業」すら、私の隣人たちの労働に比べれば遊びです。「大業」は12にすぎず、終わりがありました。(中略)隣人たちが仕事をやり遂げた場面は、一度も見聞きしていないのです。

ギリシャ神話で英雄ヘラクレスがゼウスに課された「大業」ですら12しかなかったのに、人々は終わりのない苦行である労働に従事している。

 

ソローは自身の経験から1年に6週間働けば、暮らしていけることを知っていた。

私は5年を超える歳月を自分の手で働いて生きた経験から、1年につき6週間ほど働けば、暮らしに必要なあらゆる代価をまかなえることを発見しました。 

6週間といえば42日間だ。

1年間は大体52週だから、週に1日以下の労働さえすれば暮らしていける計算になる。

 

それなのに余計な物を購入したり、世間の評判のために過酷な労働を続けるのは果たして意味があるのか疑問を感じている。

いくらか自由な国に暮らしながら、大多数の人は、軽薄な心の動きとつまらぬ誤解から、仲間同士の争いや、なんのためにもならぬ過酷な労働に呻吟しています。(中略)人の手は、長く酷い労苦のために、硬く、鈍感になり、震えさえして、果実を掴もうにも掴めません。

 

当時アメリカ全土で開通していた鉄道と関連して、過酷な労働や過剰な労働に対しても批判的な考えを示している。

私たちはそれほど多くの人の命を犠牲にして、忙しく働いて生きなければならないのでしょうか? 私たちは、お腹もすいてもいないのに、餓死を恐れます。私たちは、備えあれば憂いなしと言って、明日の必要の何千倍も蓄えようと働きます。でも“働く”といっても本当の目的はもともとなく、“働く”意味も見つけようがありません。 

生活に必須の4つのもの

ソローは生活に必須なものとして「食物」「住居」「衣服」「燃料」の4つをあげている。

私たち人間の“生活に必須なもの”といったらどうでしょう。

食物と避難場所(住居)に加え、衣服と燃料という4つの項目を挙げなければなりません。 人は、これら4つの“生活に必須なもの”を手に入れて初めて、生活の次の段階の問題を考える用意ができます。

最低限これらのものがあれば、生活には事足りるためそれ以上苦行のような労働をする必要はないはずだ。

 

しかし多くの人は生活に必須なものが揃っているにもかかわらず、それ以上を求めて労働に励んでいる。

私たちはそれほど多くの人の命を犠牲にして、忙しく働いて生きなければならないのでしょうか? 私たちは、お腹もすいてもいないのに、餓死を恐れます。私たちは、備えあれば憂いなしと言って、明日の必要の何千倍も蓄えようと働きます。でも“働く”といっても本当の目的はもともとなく、“働く”意味も見つけようがありません。 

 

そして金持ちの暮らしは特に過剰で「暑すぎる」と話す。

贅沢なお金持ちの暮らしは、快適に“暖かく”暮らす必要をはるかに超えて、“暑い”のです。不自然な暑さです。ここで私が論じたとおり、お金持ちは世の流れに身をまかせ、茹だるほどの暑さに浸かっています。 

 「生活に必要最低限のもの」が揃えば、あとは持つだけ無駄で、それ以上は手に入れても意味がないのではない。

うまく体の熱を保てた人は、次に段階として何を望むのでしょうか? もっと温かさが欲しいと望む人はいないでしょう。温かさを保つのに、もっと美味な食物をもっとたくさん食べたいとか、もっと素敵で大きな家が欲しいとか、もっと美しい服をもっと重ねて着たいとか、もっとよく燃えるストーブをもっと焚きたいとは思わないでしょう。

“生活に必須なもの”があれば、それ以上手に入れても、余りものの山を抱えて暮らすだけで、馬鹿げています。

自分の好きなことをしよう

ソローは最低限生活に必要なものが揃ったら、仕事なんかに構わずにあとは自分の好きなことをやればいいじゃないかと話している。

私は、誰もが今よりも格段に強い確信を持って生きるほうがいいい、と考えます。(中略)仕事などの小さな問題で頭を悩まさず、心底やってみたいと夢見る大切なことに使うのです。

ソローは教育の仕事で子供に教える仕事をしていたこともあるが、自分の好きなことではないことに時間を使うのが嫌だったといっている。

私はこの教育の仕事のために服を整え、教材を調べながらも、心の底からしたいわけではなかったため、時間がかかりすぎて堪えられませんでした。

ソローが小屋ぐらしを始めたのも自分がやりたいことだったからだ。

私が森で暮らしてみようと心に決めたのは、人の生活を作るもとの事実かと真正面から向きたいたいと望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、じつは本当は生きてはいなかったと知ることのないように、生活が私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は暮らしといえない暮らしを生きたいとは思いません。私は今を生きたいのです。

必要最低限の生活の条件を整えたあとは、小屋で豆畑を耕し、本を書き、自然を観察することに時間を費やしている。

ちなみにライチョウのオスが繁殖期に出す音が、羽を打ち鳴らして出す羽音だと発見したのはソローらしい。

 

小屋暮らしの間にシカの世話や野生植物が枯れないよう世話も行い、自然に関する調査報告書を作成して町の公益に貢献したが、群役所は役職を与えたり、報酬を支払うつもりはないのだと、皮肉もいっている。

 

ソローはやりたいことがあるなら、後回しにせずに必要最低限な暮らしに切り替えて、時間を確保してすぐに取り掛かるべきだとも記している。

長生きすれば頭が固くなり、旅したい気持ちは失せます。人生の最良な時期を稼ぐために費やし、稼いだお金を、人生の最も価値の少ない残りの時期の怪しい自由を楽しむために使う人をみると、私はインドでお金を稼いで青年期を過ごし、のちにイギリスに戻って詩人の暮らしをしたイギリス人を思い起こします。詩人になるなら、今すぐ屋根裏の安アパートで暮らすべきです。

 

ソローは多くの本を読んだりして博学だったが、自身の経験を最も重視していた。

あれこれと周囲の人々が意見を言ってくるかもしれないが、他人と自分の人生は違うのであまり参考にならない。

 

年長者のいうことなどはあまり真に受けるなと話している。

私は、この惑星の上に30年ほども生きてきました。けれども、私は、年長の人から価値ある助言のひとつも貰えたためしがありません。(中略)生きるとは、私だけの実験です。たしかにほかの誰もが生きてはいますが、それを参考にすることができない、私だけの実験です。 

 

世間の考えに迎合しているとその考えに囚われてしまい、本当は可能性あることや自分の好きなことができなくなってしまうからだ。

自分についての自分の考えの奴隷になり、囚われ人になっています。(中略)人は自分がどう考えるかで、自分の運命を決めている。いや、正確には自分を方向づけています。

 

またカトリックの教義など、多くの人を一つの型にはめる考え方も、人の可能性を阻害するため、あまり好ましく思っていなかったようだ。

私達はいつも誠実に生きるようにさせられています。変われるのに変わらず、自分の小さな暮らしを大切にし、それが唯一の生き方だと思いこんでいます。ところが実際は、ひとつの中心から無数の放射線を描くことができるように、人の生き方はみな違います。

簡素に生きろとはいっているが、型にはまって生きるべきではないと話している。 

服は古い服で構わない

ソローが「生活に必須なもの」としてあげた1つが「洋服」だ。

ただし必要なのは人は裸でいられないからであって、オシャレのためではない。

 

自分の仕事に取り掛かるのに新しい服は必要なく、新しい服を購入してお金を無駄にするなら、手持ちの古い服で直ぐに仕事に取り掛かったがいいと話している。

仕事の内容と洋服は関係がないからだ。

 

しかし、多くの人は新しい服を買って無駄なお金を使っている。

私たちはいつも、衣服が必要だから買うのではなく、新しい服が欲しいという単純な欲望のためや、古い服を着ていては人にどう思われるかわからないといった理由で、衣服を新調します。

 

そして過剰に古い服を着たり、継ぎを当てるのは非常識とも考えている。

たいていの人は、継ぎを当てて着るどころか、縫った服を着たら最後、人生の計画が狂うと言わんばかりなのですから、不思議です。破れたズボンで街を歩くくらいなら、骨折した脚で歩くほうが気楽なのでしょう。

 

ファッションに関しても、ソローはかなり痛烈に批判をしている。 

パリのサルたちの組頭が旅行家の帽子を頭に乗せると、アメリカのすべてのサルたちが真似をして大喜びします。

アメリカのサルたちは、みな一度は、強力な圧搾機にかけて古い考えを搾り取り、ちっとやそっとでは立ち上がれないくらい、痛めつけたほうがいいでしょう。 

住居高すぎ問題

ソローは、周りの人が苦行ともいえる労働に励む理由の一つに住居が高すぎることがあると書いている。

住居(避難場所)はソローが考える最低限必須なものの1つだが、手に入れるのは容易ではない。

 

購入するには何年も働かなければいけないし、借りた場合でも、毎月お金を支払う必要がある。

この町で平均的な住居を手に入れる代価は800ドルほどですが、このお金を働いて蓄えるには、家族を養っていない人でも、10年から15年の暮らしの量をつぎ込まなければなりません。文明化された人が現代のウィグワムを手に入れるには、生涯の暮らしの半分も費やさねばなりません。

未開の人が文明化することで、自分で造ったウィグワムを文明化した宮殿に、この代価で交換したことが賢明な選択であると、現代の私たちは言えるのでしょうか。

ウィグワムは、インディアンが作る簡易住居のことだ。

文明化によって住居が快適になったが、その分住居のコストが格段に高くなり、そのせいで自由が制限されてしまっている。

それならば簡易な住居で自由を手に入れたほうがいいのではないかと説いている。

 

現代の日本でも相変わらず家は高額で、35年などの馬鹿げた長期ローンを組んで家を買う仕組みが当たり前になっている。

もしソローが現代の状況を知ったら、さらに状況が悪くなっていると考えるに違いない。

ほとんどの人はおそらく、住居とは何かなどと一度も考えたことがないのでしょう。人は互いに隣を見て、似た家を建て、一生をわざわざ貧しく過ごすはめに陥っています。 

 

そして家を手に入れることができたとしても、大きすぎる家は人には手に負えず、今度は家に縛られてしまうと語る。

ようやく家を手に入れると、農民は豊かどころか、お金の面でも、精神の面でも、貧しくなっています。農民が家を手に入れたのではなく、家が農民を手に入れたからです。(中略)現代の家も、大きすぎる厄介な所有物です。人は、避難場所である住居に守ってもらうどころか、監獄に幽閉されています。

 

文明化は建物の改良に成功し、人々は昔に比べると、宮殿のような家に住むことができるようになった。

しかしそこに住む人間自身の改良には全く成功しておらず、全く進歩していない。

それなら良い住居に住む意味がないのではないかと語る。

文明化した人の人生の目的が、未開の人のそれと比べ、格段の価値があるとはいえず、実際、暮らしのほとんどを、ただ暮らしに必要な物と心地よさを追い求めるために費やすとしたら、なぜ、文明化した人は未開の人より良い住居に住む必要があるのでしょうか?

ソローは人間自身の道徳性や徳を高めることが重要だと考えていた。

豪華な建物に住むことを好ましく思わないのは、豪華な建物に住もうとすると、人はそのことに必死になり、人間形成がおろそかになるためだ。

現代の贅沢な住居を建てることを私は躊躇しますが、その理由は、この国がまだ“人間を耕す”ほど成熟してはいないからです。

文明化が進んでも人は進歩せず、良い家に住んだからといって優れた人間になれるわけでもないと語っている。

ミニマリストの源流としての森の生活

ソローは山小屋で最低限の持ち物で生活し、複雑な文明社会で人は物を持ちすぎているため「簡素に生活すべき」と提案している。

「森の生活」の中でも、物を少なくして暮らすことや、モノを捨てることの有用性を説いた部分など今のミニマリストやシンプルライフに近い考え方が多く記されている。

私たちはいつの時代にも、新しい贅沢をますます多く手に入れる事ばかり考えてきました。それなら、これからはずっと、ますます少なく暮らす方法をすべての人が考えてもいいのではないでしょうか? 

 

ソローは朝の時間を大切にしていて、物が多いと朝の仕事の妨げになると考えていた。

私たちの住居が、家具が多すぎて乱雑である事実に変わりはありません。洗練された主婦なら、朝の仕事が気持ちよくできるよう、家具のほとんどをダストホールに捨てるでしょう。完ぺきにできてこそ朝の仕事です! 

 

小屋の中に石灰石を置いていたが、置いておくと塵がつくのが嫌で捨ててしまったというエピソードも記してある。

私の心の家具にはかすかな塵も付かない素晴らしい朝に、3つの石灰石にはいつも塵がつくので怖くなり、窓から捨ててしまいました。 

  

多くの人は物を持ちすぎてがんじがらめになり、身動きが取れなくなっている。

所有する物のすべてをあなたの目で見てください。台所用品から、決して捨てずに溜まりに溜まった物のすべて、さらに持っていないふりをして持っている持ち物のすべてを、あなたの目で見てください。

人は物を持ちすぎ、重すぎて、前に進めてもほんの一歩で精一杯、とわかるでしょう。私が言うがんじがらめの人とは、空身なら自由に抜けられるいわの裂け目に、ソリに載せた家具の山が引っ掛かって身動きできない人です。 

 

持ち物が多い人は、当時細かい州に分かれていて内紛が絶えなかったドイツ連邦のように無茶苦茶だと話し、政府も同じような状態だと嘆いている。

政府は不様に太りかえり、調度品ばかり買い込んで、自分から身動きできずにいます。 目的がなければ計画もなく、贅沢と余計な出費でめちゃくちゃです。わが国の何百万という家族の暮らしも同じです。

 

文明化により便利な道具が増えたが、そのせいで道具にとらわれてしまい人は道具の道具に成り下がっているとも話す。

人はとても小さな存在であっただけに、自然に寄寓し、自然を渡り歩くことだけは存分に楽しめました。十分な食事と睡眠で元気を取り戻すと、次の日の旅の構想を練ったのです。(中略)今や人は、自分が作った道具の道具になっています。  

 

そして多すぎる事柄は極力減らしていくべきだと提案し、簡素に生きるべきだと何度も記している。

正直に生きる人なら、手の10の指を使って計算すれば、物事のほとんどは間に合うでしょう。どうしても必要なら、脚の10の指にも助けてもらえば完璧で、あとの問題は十把ひとからげに捨ててしまえばよいのです。簡素に、簡素に、さらに簡素に生きましょう!

私はあなたに、あなたが関わる事柄がなんであれ、2つか3つにとどめておきなさい、と勧めます。 決して100とか1000ではいけません。100万を数える面倒は絶対に御免こうむり、せいぜい5とか6にしましょう。

1日3食といっても、必要なら1食で問題ありません。100の皿を使う代わりに5つにしましょう。他のどんな問題も、この割合で切り詰めていいのです。 

 

引っ越しに関しても語り、インディアンの物を燃やす祭りの話を引き合いに、物を捨てるのでなければ引っ越す意味がないと話している。

私たちは、家具を捨て、殻を脱ぎ捨てるためでなくて、なんのために引っ越すのでしょうか? 引っ越すのは、世界を捨て、燃え尽くすにまかせ、再生する生き生きとした世界に移り住むこと、ではないのでしょうか?(中略)家具すら捨てられない人が、突然の不幸に立ち直れないのは当然です。

孤独について

ソローは周囲に誰も住んでいない小屋暮らしをしているのでよく周りに「寂しくないの?」と聞かれたようだ。

ソロー自身小屋暮らしを始めた当初は「ずっと一人でいて、大丈夫だろうか」と思ったようだが、実際に一人で過ごしていることほど素晴らしいことはないと話している。

私は、ほとんどの時間をひとりで過ごすことが、元気な良き生き方であることを発見しました。他の人と一緒にいると、たとえ最高にいい人とであっても、まもなくうんざりして、消耗します。私はひとりでいるのが好きです。私は独り居ほど素晴らしい友に出会ったためしがありません。 

 

頻繁に人と会っても、自身に新しい価値観が身についていなければ同じ話の繰り返しになり退屈してしまう。

私たちの社会と社交は、つまらないものになっています。私たちは、人に会う時間が長すぎ、多すぎて、会う人に伝える新しい価値を身につける暇がありません。日に三回、食事のたびに人に会い、考えが硬くなった自分と同じ古いチーズをまたしても噛み、話の種にしようと四苦八苦します。

社交のつまらなさを補うためにエチケットという規則ができたとソローは考えている。

また自分に関係のないニュースに夢中になる人々に批判的だった。

 

ただしソローは別の章では社交好きだとも語っている。

一人好きの寂しがり屋だったのだろうか。

「ウォールデン 森の生活」まとめ

  1. 過酷な労働によって人々の余裕はなくなっている
  2. 最低限の暮らしをしよう
  3. そうすれば人はそこまで働かなくてもいい
  4. そして好きなことをしよう

本自体はかなり昔の古典だが、現代の日本で読んでも通じる部分が多い。

それは、ソローが文明社会の問題点をあぶり出して、文明社会に対する批判を行っているためだろう。

ソローの言うことが通じるということは、160年以上前の問題が今も解決していないということでもある。

 

当記事ではソローの文明批判に関する部分を中心に紹介したが、自然の描写も素晴らしい本だ。