こんにちは友幸(@humberttomoyuki)です。
今回は本を紹介する。
劇作家、演出家である鴻上尚史が「生きる希望」を感じることのできた作品を紹介している本。
自身の体験を交えて、選んだ本の内容が語られている。
選ばれた本は著者が昔読んで感動し、20年以上たってから再読したらやはり感動した作品。
新しい古典としてこれから先も存在し続けるであろう作品群だ。
学生時代に劇団を旗揚げして、現役で活躍し続ける著者に影響を与えた作品を紹介していく。
アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス【小説】
32歳の知的障害者であるチャーリイが、手術を受けて天才となり、また知的障害者に戻っていく話。アルジャーノンはチャーリイのさきに手術を受けて、知能が高度化したネズミの名前。物語はチャーリイが経過報告を書くというスタイルで一人称で語られる。
最初はひらがなばかりの文体で漢字が少なく文法もめちゃくちゃの文章だが、天才になるにつれて漢字が増え、文法も正しくなり複雑な文章になっていく。
最初、チャーリイはパン屋で働きながら、職場の仲間から馬鹿にされていることに気づかない。
パーティがどういうふうにおわったのか覚えていないけれども、みんながあの角をまがって雨がふっているかどうか見てきてくれといったので見てきたらもうだれもいなかった。きっとぼくをさがしにいったのだろう。ぼくはおそくまでみんなをさがしまわった。しかし道がわからなくなってしまって迷子になってしまった自分がなさけなかったアルジャーノンならこんな道は百回もいったりきたりしてもぼくみたいに迷子になんかならないだろう
知的障害者の成人センターのキニアン先生はこの経過報告を読んで涙を流す。
チャーリイの悪意への無自覚と純粋さにわたしたちは心惹かれ同情する。
その後知能が発達し、チャーリイはあれがいじめであったことを知る。
ジョウやフランクたちがぼくを連れあるいたのはぼくを笑いものにするためだったなんてちっとも知らなかった。(中略)ぼくははずかしい。
そして知能が発達することでチャーリイは悲しい現実を次々と知っていく。
足をひきずっている同僚のジンピィが、こっそりと売り上げをくすねている現場を目撃する。けれどもし店主のドナーさんにこのことを告げてクビになると、足の悪いジンピィは次の職につけないかもしれない。ジンピィには三人の子供がいる。
母親は世間体を極端に気にし、父親とチャーリイの治療についての喧嘩が絶えない。
今まで知らなかった人間に対する絶望が次々に露呈していく。
しかし絶望だらけの作品は読後に絶望だけが残らない作品になっている。
有名な最後の2行の文章によって、読者に希望を感じさせることができる。
深い絶望を描き、同時に希望を感じさせる名作。
百年の孤独 ガブリエル ガルシア=マルケス【小説】
作者のガブリエル ガルシア=マルケスはラテンアメリカ文学の代表者でその手法は「魔術的リアリズム」と呼ばれる。
「百年の孤独は」荒唐無稽な物語が連続しておこる、要約不可能な物語だ。
しいて言えば、南米の村マコンドを舞台にホセ・アルカディオとウルスラという夫婦から始まる一族の百年の物語。
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百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)
- 作者: ガブリエルガルシア=マルケス,Gabriel Garc´ia M´arquez,鼓直
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2006/12
- メディア: 単行本
- 購入: 25人 クリック: 269回
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百年ではおさまりきれないくらいの登場人物が次々に登場する。
同じ名前の登場人物が何人もいるため、読んでいると誰が誰だかわからなくなってくる。
百年以上生きている人もいれば、シーツを握ったまま風に吹かれて消えてしまう人、子供の頃から未来を予知できる能力がある人や協会建立の費用を稼ぐために空中浮遊を実演する神父や、廊下の片隅で縫い物をしている死神など個性的な人々が登場する。
この作品は「人生なんて意味ないじゃん」という絶望へのカウンターパンチだ。
百年の孤独の過剰な意味を与えられたそれぞれの登場人物の人生を見ていると、だんだんとおかしみを感じるようになり、それが笑いにつながる解放感になる。
人生の意味なんてないから、意味を与えよう。それも過剰な意味を与えよう。そうすることで、人生の意味のなさを嘆くことがいかにバカバカしいかを感じるようになる。
百年の孤独は、物語とはなにかと言う本質的な問いに対して、過剰な意味を対置することで一つの解答を与えた。
この物語を読むことによって、人生には意味がなくてもかまわない、意味がないのなら、過剰な意味をこっちでつけてやろうと、楽しみながら思うようになるかもしれない。
そんな奇跡的な感覚を人間に与える可能性のある本。
泣いた赤おに 浜田 広介 【絵本】
泣いた赤鬼は桃太郎のようないわゆる古い昔話ではない。
浜田広介によって昭和8年に作られた作品だ。
浜田広介は幼年童話を書き続け、「ひろすけ童話」と呼ばれる作品群を生み出した。
あらすじはいうまでもないが、一応説明しておく。
若く素直な赤おにが、人間と友達になりたいと思ってお菓子とお茶を用意して、来客を促す立て札を家の前に出す。
しかし、村人はだまして食うつもりじゃないかと考えて近寄らない。
そんな時、山奥から青おにがやってきて、ふもとの村でひとあばれするから途中で赤おにに止めに入るように言う。
ためらう赤おにに青おには手を引っ張って連れて行き、計画通り村で暴れる。
赤おにが途中で入っていき、青おにを追っ払う。
それを見ていた村人は赤おにをやさしい鬼だと思い、赤おにの元を訪れるようになる。
赤おには人間の友達ができてさびしくなくなったが、青おにがあれから家をたずねてこない。青おにの家にいってみると張り紙がしてあり、青おにがどこかへ去ってしまったことを知り泣く。
著者は青おにがどうして去っていったのか? どうして赤おにを助けたのか? どうして何も言わずにでていったのか?といった「どうして?」を突き詰めて考えた。
青おにが赤おにを助けた理由を「無償の愛」や「美しい友情」と言ってしまえば聞こえはいいが、そんな言葉でまとめると青おにのしたことが、ずっとちっぽけになってしまうような気がしたからだ。
そして「青おにがどうして、あんなことをしたのか?」を考える戯曲「ハルジオン・デイズ」をつくった。
しかし結局、著者は「無償の愛」や自分の考えついた動機には納得していない。
納得していないが、納得しないままにこの作品に感動し、泣くことができる。
青おにの事情や動機は理解していないのに、感動し泣いてしまう。
この作品はわたしたちは、分からないのに感動することができるという一つの真実を教えてくれる。
友達 安部 公房 【戯曲】
1967年に安部公房の書いた戯曲。
一人暮らしの男のマンションに、「家族」が現れる。父、母、祖父、兄弟3人、姉妹3人の計9人の大家族だ。彼らは男のマンションにずかずかと上がりこむ。男は、興奮して、出て行け! と叫ぶが家族は動じない。
男は警察に電話をして、警察とマンションの管理人を呼ぶ。「完全に赤の他人です!」と話す男に対して警察は「ちょっと考えられないことだからなあ」といい赤の他人である証拠はないか要求する。
マンションの管理人もお金さえ払っていれば誰が住んでいようとお構いなしの様子でまともに取り合ってくれない。
こうして男は「家族」と一緒に暮らすことになる。
物語とは訳のわからない現実を解釈したものである。
つまり現実自体は物語にならない限り、訳のわからないものなのだ。
現実はただ起こるだけであって、どんな意味があるのかを決めるのは物語ということになる。
この戯曲のラストで父は言う。
しかし友よ。君がなぜこのような運命にみまわれなければならなかったか、おそらく、君には分からないでしょう。むろん、私たちにも、分からない。(新聞をひろげ)では、君が待っていた新聞ですよ。どうぞ、心置きなく、お聞き下さい。(上演当日の朝刊の主だった記事を、拾い読みする。国際政治から広告まで)そう、世界は広い。広くて複雑だ。さあ、元気をだして。
この父のセリフは物語の中に、現実の新聞の出来事を取り入れている。
安部公房は大胆な方法で物語の中に現実をぶちこんでくる。
「おそらく、君には分からないでしょう。むろん、私たちにも、分からない」も「そう、世界は広い。広くて複雑だ」というのも物語の中から、現実に対して語っている言葉だ。そして現実が理解不可能だと語ったところで、「さあ、元気をだして」と現実の前に途方にくれるわたしたちを励ますのある。
「友達」は物語の手法で現実の理解不可能性を示した作品。
人間失格 太宰 治【小説】
「人間失格」は太宰治が山崎富栄と心中した年、1948年に書かれた作品。
連載の2回目以降は作者の死後、発表された。
「人間失格」のストーリーは、ある男の手記を別の男が発表するという形になっている。その内容は、幼い頃から人間に対して違和感を感じ、人間とうまくつきあえないと悩んでいた男が、自ら「道化」となって生きていくことになった内面を赤裸々に告白するというもの。
幼い頃から人間と人間の営みが理解できないという主人公葉蔵。
自分は隣人と、ほとんど会話ができません。何を、どういったらいいのか、わからないのです。
そこで考えだしたのは、道化でした。
それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間をどうしても思いきれなかったらしいのです。(中略)おもてでは絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗を流してのサーヴィスでした。
子供のときから、家族さえ何を考えているのか分からず、気まずさに耐えられなくなって道化になっていた。
葉蔵は抵抗するのではなく全て諦めている。そして諦める自分と人間に絶望している。
政党の 演説会を見たあとに、下男や父の「同志たち」が陰で悪口をいいながら、父の前では大成功だったと言うのを見て「清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活には充満している」と書く。
しかし、葉蔵も道化を演じている以上、あざむきあうこと自体が醜いとか汚いといっているわけではない。
では何が問題なのかというと
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている 、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦を教えてはくれませんでした。そえさえ、わかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。
葉蔵にとって人間は難解すぎた。
葉蔵は他人をあざむくため道化になるのに必死のサーヴィスをしているのに、他人は「清く明るく朗らかに」他人をあざむいている。それが理解できない。
自分自身と人間への絶望を描いた、現代のわたしたちにも通じる普遍的なテーマを扱った作品。
贈る言葉 柴田 翔【小説】
1960年代、革命とアンダーグラウンドの時代に、若者に熱狂的に読まれた本。
著者は団塊世代ではないが、高校生のころ、この作品の恋愛と性を「不器用」に「ひたむき」に扱っているところに惹かれて読んだという。
著者が唸りながら何度も読み返した文章を少し長いが掲載する。
人生の強烈な関心というものは、おそらく、その強烈さに見合うだけの、一つの思い込みにも似た強烈な観念、例えば永久革命、例えば永遠の反抗、更には絶対的愛、絶対の自由、純粋な性といった強烈な観念に、転化することなしには、存在し続けることができない。それらの観念はみな、「絶対」あるいはそれに準ずる形容詞を要求するのであって、つまるところはただ一つ、漸く始められた人生を力の限り生きたいと願う若い人間のあがきなのだ。そうやって形成された排他的な観念は、自己の強烈さに見合うだけの対象を、この世界に発見できない。それ故、あまりに強い関心を人生に懐くものは、必然的に、身のまわりの事柄には全く興味が持てず、自分をごまかして二十日ねずみのように空虚な行動の車を踏みつづけるか、あるいは、外見的には完全な無関心、無気力のうちに陥ってしまう他はない。
絶対のものがこの世にないことを知りながら、自分の求める強烈な何かを求めてあがく。反動として、全く無関心になりながら、高校時代を過ごした著者は同じような生活をしている、大学生の主人公に感情移入する。
主人公は政治の季節にどうしていいのか分からず、ただデモを見に行く。
そこで同じように、どうしていいかわからずデモを見ている「君」と出会う。
「君」は高校生の時、家庭科が女子だけ必修であることに納得がいかず、1人抵抗した。そのおかげで、女子からは変な人扱いされて、高校にいる間1人も友達ができなかった。
彼女はそこから教訓を得る。
これが社会なんだ。これが、現在の日本の社会の現実なんだって、自分に言いきかせたわ。いい気になってはいけない。甘くみてはいけない。向うがそうなら、こちらも、油断なく、身構えなければいけない。(中略)自分の欲していることを貫くためには、意地になり、頑なにならなければならない。そう、決心したわ。
彼女も主人公と同様に不器用で自分の意志を曲げることできない。
そんな彼女に惹かれて2人は付き合うことになる。
表面的な不器用さではなく、物事の本質を常に考えてしまう、観念としての不器用さとひたむきさを味わえる作品。
劇画・オバQ 藤子・F・不二雄 【漫画】
「オバケのQ太郎」は、藤子不二雄名義(藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aの共同作品)で1964年から1966年(雑誌によっては1967年まで)連載された作品。
その後、藤子・F・不二雄名義で「新オバケのQ太郎」が1971年から1973年まで描かれた。劇画・オバQはその後、1973年に描かれた全部で20ページ足らずの短編である。
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ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)
- 作者: 藤子・F・不二雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1995/07
- メディア: 文庫
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劇画タッチで妙にリアルに、陰影をつけて描かれたオバQが振り向いている姿が最初のページの扉絵になっている。
その顔は切なく、苦い表情で、何かを訴えているよう。
物語は大人になった正ちゃんが、すっかりあたまの薄くなったハカセ(博勢)に会社を辞めて、一緒に事業に参加しないかと誘われるところから始まる。
その帰り道に正ちゃんは、Qちゃんに15年ぶりに出会い、家に誘う。
Qちゃんは昔と変わらず大食いでごはん20杯をたいらげて、奥さんを閉口させる。
そして、夜遅くまで正ちゃんと話として、翌日もお腹いっぱいにおかしとごはんを食べて、仕事でへとへとになって帰ってきた正ちゃんに将棋をしようと誘うが、寝不足だからと断られる。
そしてQちゃんと一緒に寝ようと思い寝室のドアを開こうとして、正ちゃんと奥さんの会話を聞く。
「ねえ、なんとかしてよ。毎食20杯でしょ、漫画なら笑いで済むけど現実の問題となると深刻よ。」
「もうしばらくがまんしてくれよ!」
「それにあのいびき!! 私もゆうべ寝られなかったのよ。ねえ、Qちゃんいつ帰るの?」
このマンガを描いた当時、「オバQ」ファンから「夢をこわさないでほしい」という抗議があったらしい。
著者も20代でこの漫画を初めて知った時は、激しい衝撃を受けたという。
名作とは生きる勇気を与えてくれるものだと著者は考える。
その作品が「現実を忘れさせて」くれるものであろうが、「現実を見つめさせて」くれるものであろうが、どちらでも生きる勇気をくれるものが名作である。
そして、夢の終わりを描いた「劇画・オバQ」を読むと、哀しくなりながら生きる勇気を得ることができる。オバQの背中に絶望しながらも、現実を受け入れ、そういう現実を生きていく意志を感じるからだ。
生きていこうとする意志がどんなに微かな小さなものでも、それがある限り感動する。「劇画・オバQ」は真実を描いた作品だ。
大いなる助走 筒井 康隆【小説】
日本SF三大作家の1人、筒井康隆の作品。
筒井康隆は多くの話題作を書き、たくさんの売上をあげているにも関わらず、直木賞を受賞していない。
3度直木賞の候補に上がったことがあるが落ちている。
本人のあずかり知らないところで勝手に候補にされて、落とした理由の悪口を書かれている。
「大いなる助走」はきわめてシンプルで直線的なストーリーだ。
同人誌に載った処女作が、ヒョンなことから直廾賞の候補作になった主人公市谷京二が、周囲の羨望と冷笑をあびながら、受賞目指して繰り広げる壮絶な闘いの物語。
市谷は編集者の手引で、受賞のためのあらゆる活動を始める。
選考委員たちは、金で納得する者、女性を紹介すると転ぶ者、お尻を捧げて喜ぶ者などいろいろだ。
市谷は賞を取るためにと全額の貯金を使い果たし、不倫相手の人妻に協力を求め、自分自身を捧げ賞を取ろうと必死になる。
全編から、筒井康隆の「直木賞を落としやがって!」という憤怒が立ち上がってくる。筒井康隆のすごいところは私怨が一級のエンタテイメント作品になっている点。
連載中から、「あの連載をやめさせろ」とモデルにされた選考委員のひとりが一番大きな唇(おそらく松本清張)で編集部に怒鳴りこんできたそう。
井上ひさしは、新人文学賞の選考会の時、しばしば「この人に受賞させないと、『筒井康隆に直木賞をやらなかった』ようなことになる」と発言していたそうだ。
活字を読むことが勉強でも知識の蓄積でもなく、純粋に楽しみなんだ、こうふんすることなんだと教えてくれる、ワクワク感を与えてくれる作品。
変身 フランツ・カフカ【小説】
ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した。
小説の最初の一文が、物語の全てを簡潔に現している。
「変身」はリアリズム小説だ。そのリアリズムによって、読者の前に圧倒的な存在感でせまってくる。ただのフィクションとは思えない迫真性がこの小説にはある。
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- 作者: フランツ・カフカ,Franz Kafka,高橋義孝
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1952/07/28
- メディア: 文庫
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もし家族の生活がファンタジーだったら、「不思議なことがよく起こるんだな」と納得できるが、描かれているのは平凡な生活だ。
そして、虫になるという一点だけ異質な出来事が起こっている。
描かれている生活が圧倒的にリアルだから、わたしたちはザムザが虫になることには納得できない。
不条理を感じる。
そしてなぜ虫になったのか様々な解釈をしていく。
「変身」は働き続けながら、小説を書くことが困難だった作者カフカの自伝である、という解釈。
父親との葛藤で悩んでいたザムザは、父親の前では自分は虫のようだと感じていた。虫は無力な息子のメタファーなのではないか、という解釈。
ザムザは虫になったのではなく、ザムザの本来の本質が現れただけ。
みんな毎日、ちゃんと仕事に行って家族を守って必死で生きている。
みんな一生懸命人間をやっているんだ。
しかし一歩レールを外れると人間は簡単に人間ではなくなってしまう、という解釈。
他にも様々な解釈がある。そして「変身」はこれからも様々な解釈を生み続けるだろう。けれど、「変身」そのものは、何も変わらない。人生にいろんな意味付けをしても、人生そのものは変わらないように、そこにあり続ける。
不条理な人生そのものを描きながら、面白い作品が生まれるということを教えてくれる小説。
セメント樽の中の手紙 葉山 嘉樹【小説】
1926年に発表されたプロレタリア文学の代表作。
プロレタリア文学は働く人たちを描いて、働く人たちの味方になり、働く人たちに生きる希望と戦う道筋を与える文学のこと。
「蟹工船」を書いた小林多喜二と共に葉山 嘉樹はプロレタリア文学のスター作家になった。
主人公は松戸与三。セメント樽をあけて、中のセメントをミキサーの中に入れるのが仕事。1日11時間も、同じ作業を続けている。
頭の毛と鼻の下はセメントで灰色になっているが、忙しく、疲れている与三は、指を鼻の穴にもっていく時間もない。
作業の終わり頃、、ひとつのセメント樽の中から小さな木の箱がでてくる。
彼は木箱を家に持ち帰り、木箱を開けてみる。中にはボロに包んだ紙切れがてできた。
手紙はセメント袋を縫う女工が書いたものだった。
手紙の内容は、恋人が粉砕機へ石を入れる時に、一緒に粉砕機の中にはまってしまった。石と一緒に粉々に砕かれて、赤い細い石になる。その後、粉砕筒で粉々に砕かれてセメントになった。
セメントになった恋人がどんなところに使われたのか。
そしてどんな人に使われたのかを知りたいと書かれていた。
手紙を読み終わった与三はこんな言葉を口に出す。
「へべれけに酔っ払いたいてえなあ。そうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。
「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子どもたちをどうします」
細君がそういった。
彼は、細君の大きなお腹に七人目の子供を見た。
この作品は原稿用紙で10枚ほどの短い作品だ(このブログ記事よりも短い)。
今ではだれも読まないプロレタリア文学というジャンルのレッテルを貼られているがこの作品は
- 女工の恋心を描いた恋愛小説
- 手紙の謎を解いていくミステリー小説
- セメントになってしまったホラー小説
と、様々な角度から読むことができる。
短い中に小説そのものが詰まった作品。
ガープの世界 ジョン アーヴィング【映画】
著者が一時期、後輩に勧めていたいた作品がある。一番最初に紹介した「アルジャーノンに花束を」とこの「ガープの世界」だ。しかし小説「ガープの世界」ではなく、映画「ガープの世界」。
小説版は文庫本で上下巻あわせて1000ページをこえる大作なので、本を読む習慣のない人は、死ぬまで読み切るのは不可能だ。
映画なら137分。二時間ちょっとで、ジョン・アーヴィングの世界が楽しめる。
ガープの世界は、母親ジェニーが子供は欲しい、でも結婚したくないと考えて、戦場で傷ついて全身包帯だらけの軍人にまたがり、欲望なしで子供を手に入れるところから始まる。
それが主人公ガープである。
やがてガープはレスリングに夢中になり、コーチの娘に「結婚するなら、作家」と言われ、作家になる決心をする。
その後、母親のジェニーは街角に立つ娼婦に話を聞いて、自伝「性の容疑者」を描き上げる。この本はベストセラーになりジェニーは有名な女性運動家に祭り上げられる。
母親ジェニーのもとに集まった人の中に、まったくしゃべれない集団がある。
ガープが話しかけても、「Hi」と紙に書いて渡すだけだ。
彼女たちは、11歳の女性エレン・ジェイムズが強姦され、舌を切られた事件に抗議して自らの舌を切り取った女性たちの集団だった。
彼女らは「エレン・ジェイムズ党員」だと名乗る。
ガープは彼女らの行いを行き過ぎだと思い、嘆き悲しむが、エレン・ジェイムズ党員は無視をする。
このエレン・ジェイムズ党員を出すことが、間違いなくこの世界を描いている、残酷でいとおしく、ろくでもない世界をちゃんと描写している。
この作品の印象はハッピーエンドではないが、不思議とハッピーだ。
世界はこんなにも残酷だけど、人間ははっきりと生きる意志と幸福になろうとする願いを持っている。
この世界はろくでもないけれど素敵な世界なんだ、この世界で生きていくしかないんだ、納得させられる。
エンドロールを見ている時にいとおしくもバカバカしいこのろくでもない世界を生きていこうと思える勇気がわいてくるのを感じる作品。
羊をめぐる冒険 村上 春樹【小説】
村上春樹の初期の代表作。
親友の鼠(ねずみ)の写真をなるべくひと目につくような場所においてほしいという、奇妙な依頼が冒険の始まり。
その写真を見た右翼の大物の使いが、写真に写っている背中に星形の模様のある羊を見つけるように主人公の「僕」に依頼する。
そして「僕」は耳の形がとてもセクシーな女の子と一緒に北海道に旅に出る。
村上春樹の小説に登場するたちは、みんな諦めていると言われている。
「やれやれ」といいながら、受け身で、人生の意味のなさを嘆いている。
「謎解き村上春樹」という評論では「羊をめぐる冒険」はじつは「名前をめぐる冒険」だと分析している。主人公の僕は、名前をつけること、名前をつけられること、名前と口にすることから逃げている。そして、この小説の登場人物は誰もが、固有の名前を持つことを拒否している。
「僕」は飼っている猫に名前もつけてはいないし、親友は「鼠」という呼び方だけで、固有の名前はどこにもでてこない。
名前をもつということは、社会的存在になることだ。
社会に固定される代償として名前を名乗り、社会化される。
旅を終えた後、僕は行きつけのバーに行き、マスターのジェイに旅の結果手に入れた小切手を渡す。店の借金をこれで返してくれという。あまりに多い金額にお釣りがくるよというマスターに、僕は言う。
「どうだろう、そのぶんで僕と鼠をここの共同経営者にしてくれないかな? 配当も利子もいらない。ただ名前だけでいいんだよ」
最後に主人公は名前を受け入れることを決意する。
「羊の冒険」は大人になることを引き受けたくはないのに、生きていく以上引き受けなければならない時がきて、大人になることを引き受ける。自分の青春を終わらせた宣言の本といえる。
まとめ
いかだだったろうか。
著者は現実の辛さを受け止めて、そしてなおかつ生きようという意志を与えてくれる作品を選んでいる。
物語は架空の絵空事ではなく、生きる人間に希望を与えてくれるものである、という著者の思いが伝わってくる。
皆さんの読書の参考になれば幸い。
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