こんにちは友幸(@humberttomoyuki)です。
新海誠監督の大ヒットアニメ映画「君の名は。」をみんな観た?
どうやら、ハリウッド実写化も決まったみたいだ。
不安しかない。
今回は「君の名は。」の映画と小説を両方観たのでネタバレ解説していくよ。
「入れ替わり」の時間が3年ずれている
「君の名は。」は瀧(たき)と三葉(みつは)、二人の高校2年生の入れ替わりが突然おこることから物語が進んでいく作品だ。
「入れ替わり」ギミックはドラマや映画など色々なエンターテイメント作品で使われていることが多いので、観たことのある人も多いだろう。
パッと思いつくのは、綿矢りさの小説「インストール」とかね。
「入れ替わり」は多くの場合、男女の差や、年齢差のギャップを活かしたコメディ作品であることが多い。
「君の名は。」も例にもれず、最初は突然、都会に住む瀧と、田舎に住む三葉の入れ替わりが起こり、都会と田舎、男と女のギャップを楽しむ作品となっている。
しかし「君の名は。」は話が進んでいくと、入れ替わりには、時間軸のずれがあることがわかる。
瀧は3年過去の三葉と入れ替わり、三葉は3年未来にいる瀧と入れ替わっている。
つまり同じ時間軸だと、三葉は瀧の3歳年上ということになる。
3度目の彗星落下で三葉が死に入れ替わりが起きなくなる
最初は入れ替わりのドタバタを描いたコメディ調で話が進んでいくが、突然入れ替わりが起きなくなる。
瀧は入れ替わりが起こったときの記憶を頼りに風景をスケッチして、それを頼りに三葉を探しに行く。
三葉を探した結果、3年前の彗星落下によって、村は消滅していることがわかる。
彗星落下の犠牲者一覧の中に三葉の名前があった。
彗星落下で三葉が死んだことで入れ替わりが起きなくなったのだ。
時系列に並べてみる
少しわかりにくいので、君の名は。を時系列で並べてみる。
入れ替わりは2人が高校2年生の夏に始まる。
そして、瀧が奥村先輩とデートする前日に入れ替わりは終わる。
瀧が奥寺先輩とデートする同じ日に、三葉はデートをする瀧を見に行くために、東京に向かい、そこで中学生の瀧に会う。
ここまで二人は3年のずれがあることを知らないことから、入れ替わりした時の日にちは同じ日であることがわかる。(8月17日に入れ替わったら、お互いの日にちは8月17日)
つまり、瀧が奥村先輩とデートをした日のちょうど3年前に中学生の瀧と三葉が出会っていることになる。
そして、三葉が東京に行って戻ってきた日の次の日に彗星が落ちる。
三つ葉が死んでしまうのでそれ以降は入れ替わりは 起きなくなる。
三葉と入れ替わりが起きなくなった、2~3週間後の秋に瀧は三葉を探しに行き、死亡を確認する。
そして三葉を救うために、3年前に山に奉納した口噛酒を飲み、入れ替わりをする。
この時の入れ替わりは青い色で示した。
この入れ替わりだけ同じ日にちに入れ替わりをするというルールが破られている。
「三葉が死んでいるため、生きている最後の日にちに入れ替わりをした」と考えることもできるが、まぁこのあたりは、ご都合主義というかそのまま何も起きないと物語が進まなくなるので仕方ないだろう。
そして色々頑張った結果、彗星は落ちるが村の人々は救われる。
その後、二人はお互いの記憶を失う。
そして、社会人になったある日、二人はお互いを見つける。
お互いが出会ったのが、社会人何年目かわからないので、便箋的に瀧を社会人1年目、三葉を社会人4年目としておいた。
この場合、瀧は23歳、三葉は26歳ということになる。
入れ替わりは彗星の災害を防ぐための能力
まずこの作品を観て感じるのは「なぜ入れ替わりが起こるのか?」だろう。
三葉は「宮水神社」という神社の巫女の家系だ。
宮水神社は由緒正しき神社だが、舞や組紐の理由は、200年前の火事によって失われてしまっている(祖母いわく「繭五郎の大火」)。
「おかげで、ワシたちの組紐の紋様が意味するところも、舞の意味もわからんくなってしまって、残ったのは形だけ。せやけど、意味は消えても、形は決して消しちゃあいかん。形に刻まれた意味は、いつか必ずよみがえる。」
映画を観ただけではわからないかもしれないが、小説によると、1200年に一度の周期で近づいてくる彗星の落下によって、過去に二度、集落が滅びている。
そして、宮森神社の舞や組紐の紋様は、この彗星の災害を後世に伝え、災害を防ぐことにある。
人はそれを記憶に留めようとする。なんとかのちの世に伝えようとする。文字よりも長く残る方法で。彗星を龍として。彗星を紐として。割れる彗星を舞のしぐさに。
また、三葉に限らず、宮水家の女性は、少女のころに誰かと入れ替わった経験を持っている。
三葉の祖母を母も、三葉と同じように入れ替わりを行う力をもっていた。
瀧は、この入れ替わりを、彗星による災害を防ぐためのシステムではないかと考えている。
千二百年ごとに訪れる災厄。 それを回避するために、数年先を生きる人間と夢を通じて更新する能力。 巫女の役割。宮水の血筋にいつしか備わった、世代を超えて受け継がれた警告システム。
宮森家の巫女の力は、彗星の災害を防ぐための力を代々引き継いできた。
そして、三葉の代に3度目の彗星落下が起こる。
それを防ぐために入れ替わりが起きるというわけだ。
記憶が消える理由
瀧と三葉のお互いの記憶は入れ替わりが起こらなくなると消えていく。
記憶が消えてしまう理由を考えてみた。
三葉が隕石の災害から生き残ったことから歴史が変わった。
三葉の死んだ世界線とは別の世界線に移動したからお互いの記憶が消えた。
という考え方もあるが、母も祖母も三葉と同じ体験を少女のころにしているが、その記憶を失っているので違う可能性が高い。
宮森家に代々伝わる入れ替わりの能力は、彗星落下の災害を防ぐためにある能力、システムだ。
しかし、時間軸を超えて他人と入れ替わりをするという能力は、本来あってはならない異能の力だろう。
本来あってはならない能力は修正されなければならない。
入れ替わりの力は彗星災害を防ぐためのモノだが、本来あってはならない力のため、力の持続がとても短い。
そのため、永続的に入れ替わりの記憶を保持しておくことはできない。
これなら三葉の母や祖母の記憶が無くなっていることにも説明がつく。
ただしこのシステムには欠点がある。
入れ替わりを経験した瀧と三葉にとってはお互いの記憶は自身にとってかけがえのないものとして残ってしまっている。
三葉になることは、三葉と話すことでもあった。俺たちは入れ替わりながら、同時に特別につながっていたのだ。体験を交換していたのだ。ムスビついていたのだ。
その記憶が思い出せないことは2人にとってどうしようもない「寂しさ」を産み出してしまう。
砂が崩れた後に、しかし一つだけ消えない塊がある。これは寂しさだと、俺は知る。その瞬間に俺には分かる。この先の俺に残るのは、この感情だけなのだと。誰かに持たされた荷物のように、寂しさは俺を抱えるのだと。
この「なんだかわからないが大切なものを失ってしまった寂しさ」は、災害を救うためのシステムが作り出した副産物だと考えられる。
システムは災害を防ぐことができればそれでいいが、その目的を遂行することになった2人の間では寂しさが残る。
新海誠監督はいままで、大きな流れの中で生きる少年少女のラブストーリーを描いてきた。
「君の名は。」はこれまでの新海作品の流れを引き継いていて、「大きなシステムと個人の感情とのジレンマ」が描かれているんじゃないかな。
小説版はRADWIMPSの歌詞の影響が色濃く反映されている
「君の名は。」の映画版ではRADWIMPSの曲が楽曲として使われている。
小説版でもRADWIMPSの歌詞が反映されている。
例えば、後半に瀧が社会人として働き始めているときのフレーズ。
あとすこしだけでいい、と俺は思う。
あとすこしだけでいい。もうすこしだけでいい。
RADWIMPSの「なんでもないや」を聴いたことのある人はすぐにわかると思うが、この部分は「なんでもないや」の歌詞をほとんどそのまま使っている。
小説のラストもRADWIMPSの歌詞を思わせるフレーズがいくつもあるので確認してほしい。
小説版の川村元気氏の解説によると、RADWIMPSの歌詞の影響でもともと書くはずではなかった小説も書かれたらしい。
新海誠が描いた物語やコンテを、野田洋次郎が受け取り音楽として広げ、それが合わさってこの小説となった。
「今回、小説は書きません」
そう宣言していた新海誠が、野田洋次郎の音楽によって書かされた。
映画を観て面白かった人は小説も読んでみるといいよ。
まとめ
君の名は。をやっと観たので自分なりにまとめてみた。
小説自体は、映画が完成する3カ月前にできあがり、映画よりも早く発売されることになったが、小説が原作というわけでもない。
同時に作られたものと考える方がいいだろう。
映画を観た後に小説を読めば、より深く作品を知ることができるはずだよ。