ハンバート友幸の庭

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丁寧な暮らしへの憧れとミニマリストであることについて

こんにちは友幸(@humberttomoyuki)です。

 

丁寧な暮らしという言葉がある。

「丁寧な暮らし」

すごいざっくりした言葉だけど、なんだか憧れる。

暮らしの手帖とか読んでいるとか読んでいる人が好きそうな言葉である。

 

今回は丁寧な暮らしについて考えてみたよ。

丁寧な暮らしの意味

丁寧な暮らしとはなんだろう。

「丁寧」と「暮らし」をそれぞれ辞書で引いてみると、

丁寧

1 細かいところまで気を配ること。注意深く入念にすること。また、そのさま。「アイロンを―にかける」「壊れやすいので―に扱う」

暮らし

1 暮らすこと。一日一日を過ごしていくこと。「都会での―に慣れる」
2 日々の生活。生計。「豊かな―」「―の足しにする」

 となっている。

辞書の定義に従うと丁寧な暮らしとは「細かいところまで気を配って、一日一日を過ごしていくこと」ということのようだ。

丁寧な暮らしという幻想と専業主婦

部屋はいつも綺麗に整理整頓されていて、料理は手作りで凝った料理を作る。

そういったイメージが丁寧な暮らしにはあるのではないだろうか。

「日々の衣食住に時間をかけること」というのがわたしが思う丁寧な暮らしのイメージである。

家政婦に掃除をしてもらったり、豪華な外食を食べたりといった、お金をリソースにする生活とは違い、時間というリソースを使った生活は市井の人の共感を得やすい。

時間という平等なリソースを生活に注げば誰でも達成可能という公平性があるからだ。

 

しかし、時間という限られたリソースを衣食住に集中して注ぐことは案外難しいものである。

夜遅くまで仕事をして夜は外食、帰ってきたらベットに倒れこむという生活を送っている人も多いだろう。

仕事で疲れて、休日は何もする気がしない。

眠ってばかり。

実際はそんな生活を送っている人が大半ではないだろうか。

 

わたしが考えるに、丁寧な暮らしは家のことに時間というリソースをさくことができる専業主婦という存在を前提にしているところがある。

夫が働きに出て、妻が家庭を取り仕切るという実際は戦後の短期間にしか存在しなかった家族の枠組みへのノスタルジー。

 

丁寧な暮らしは映画「Always 3丁目の夕日」のように、存在しない理想をでっちあげたところにあるのではないだろうか。

そう考えると丁寧な暮らしとはとても保守的な思想であるといえる。

しかし丁寧な暮らしにはあこがれる

 細かいところまで気を配って一日一日を過ごして暮らしていく。 

それはとても素敵な提案だし、実際実現できれば素敵だと思う。

 

しかし、わたしはもともとめんどくさがりな性格である。

できるだけ掃除などの時間をかけたくないし、モノを選ぶ時間を省略したいと思っている。

ミニマリストを目指すのもめんどくさいゆえである。

そんなやつはミニマリストではないといわれれば、ただのめんどくさがりなやつである。

 

「細かいところまで気を配って一日一日を過ごして暮らしていく」というのは性格的に無理なのはこれまでの人生が証明している。

丁寧な暮らしを否定する声もあるが、わたしにとって丁寧な暮らしとは「あこがれるが、到達不可能な領域」としてイデアのように存在し続けると思う。

 

おそらく今後も「丁寧な暮らし」に挑戦して挫折することを繰り返すことだろうが、挑戦することによって、少しでも生活の質が改善するのであればそれでいいと思う。

まとめ

  • 「丁寧な暮らし」は憧れるけど難しい、愛憎交わった存在
  • 今後も挑戦はするだろうけど、たぶん達成しないと思われる

丁寧な暮らしと言われてライフスタイル雑誌に載っているものは、よそゆきのライフスタイルであることは重々承知している。

 

丁寧な暮らしを提案している雑誌の編集者が、時間に追われ夜遅くまで仕事をし、コンビニ弁当を食べて過ごし、丁寧な暮らしとは程遠い生活であるというのも想像に難くない。

 

しかし、理想は理想、現実は現実である。

丁寧な暮らしは、その言葉の曖昧さ故に、各々の考える理想的なライフスタイルとして存在し続ける。

 

休日に気力があれば、自分の考える丁寧な暮らしをできる範囲で実践してみるのもいいかもしれないね。

目標があった方が、人間行動をおこすものである。