ハンバート友幸の庭

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「スプートニクの恋人」村上春樹 女性同士の恋愛を描いた「ぼく」物語

こんにちは友幸です。

村上春樹の9作目の長編小説「スプートニクの恋人」を読んだので紹介するよ。

スプートニクの恋人のあらすじ

22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった。それは行く手のかたちあるものを残らずなぎ倒し、片端から空に巻き上げ、理不尽に引きちぎり、完膚なきまでに叩きつぶした。――そんなとても奇妙な、この世のものとは思えないラブ・ストーリー!!

すみれは、「ノルウェイの森」の「小林緑」、ねじまき鳥クロニクルの「笠原メイ」のような、自由奔放な性格をしている人物。

美人ではないが、「人をひきつけるなにか特別なもの」を持っている。

 

ビートニクの代表的な作家ケルアックの小説にはまっていて、「どうしたらケルアックの小説の登場人物みたいにワイルドでクールで過剰になれるだろう」と考え、「古着屋で買ってきたようなぶかぶかのツイードジャケットを着て、ごついワークブーツを履いて」いる。

 

小説家になることを目指していて、「その決意は千歳の岩のように堅く、妥協の余地のないもの」だ。

そして、大学を辞め、小説を書く生活を始める。

 

そんな彼女はある日、ミュウという女性と出会い、恋に落ちる。

そこから物語は展開していく。

スプートニクの恋人とは?

スプートニクはソ連が打ち上げた人類初の人工衛星のこと。

 

すみれはミュウと初めて出会ったときに、スプートニクの話をする。

 

ミュウに、「読んでいる小説は何か?」と聞かれたすみれは、「ケルアック」と答える。

ミュウは「ビートニク」という言葉がすぐに思い浮かばず、「スプートニクっていうやつでしょう」とビートニクと取り違えて話す。

 

このエピソードから、ミ語り手の「ぼく」とすみれは、ミュウのことを「スプートニクの恋人」と呼んでいる。(二人で話している時だけだ)

 

小説のタイトルの「スプートニクの恋人」=ミュウということになる。

 

ただ、「スプートニクの恋人」は小説のタイトルにもなっているように、単にミュウを指すだけの言葉でもない。

例えば、孤独な群衆を指す比喩としても使われている。

結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊にすぎなかったんだって。遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じ込められたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは、束の間のこと。次の瞬間にはわたしたいはまた絶対の孤独の中にいる。

「スプートニクの恋人」は誰の物語か

「スプートニクの恋人」は、すみれがミュウという女性を好きになり、行動することで物語が展開する小説だ。

物語の中心は間違いなくすみれだ。

 

ただし、語り手はすみれではなく、すみれの話を聞いた「ぼく」が語り手となる。

すみれから聞いた話を「ぼく」が語るという形式だ。

 

物語を動かすのはすみれだが、語り手は過去の村上作品と同じように「ぼく」になる。

 

「ぼく」はすみれと同じ大学に通う先輩。

まわりにいる学生たちの大半は、救いがたく退屈で凡庸な二級品だった(実を言えばぼくもその一人だった)

すみれが大学を辞めた時期に大学を卒業して、小学校の教師をしている。

「ぼく」とすみれは似た者同士で、「二人とも息をするのと同じくらい自然に、熱心に本を読んで」いて、大学を卒業しても、すみれと友達でいる。

 

「ぼく」はすみれのことが好きだけど、すみれには伝えられずにいる。

「伝えても笑い飛ばされる」だろうから。

 

この物語は、すみれの話を聞いたぼくが語るという構造になっているので、すみれが語らなかったことは語られていない。

すみれ自身が記した文章も出てくるが、すみれ自身の語りではなく、あくまで「ぼく」がそれを読んでいる形になっている

 

それではこの小説は誰の物語なのだろうか?

 

「ぼく」はこの物語は自分の物語ではないと語っている。

もちろんこれはすみれの物語であり、ぼくの物語ではない

しかし本当にそうだろうか? 

 

「ぼく」は自分の物語ではないと言ったうえで、自分のことを語り始めるが、その語りにはある留保がある。

ぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手のぼくによって—その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって―取捨選択され、規定され、切り取られているということになる。

自分自身を語る時、どんなに客観性を持って語ろうとしても、間違いなく、自分の主観性が入る。

「ぼく」が語る「ぼく」はある一定の方向から見た「ぼく」に過ぎない。

そして、それは誤っている可能性があることを話している。

 

物語の途中に登場する警備員は「ぼく」についての印象をこう語る。

こういうことを言うのは失礼かとも思うんですが、思い切って申し上げまして、先生を見ているとどうも何か釈然としないところがあるんですよ。若くて背が高くて、感じが良くて、きれいに日焼けして、理路整然としている。おっしゃることもいちいちもっともだ。でもうまく言えないんですがね、最初にお目にかかったときから何かがわたしの胸にひっかかるんです。うまく呑み込めないものがあるんです。

これは「ぼく」という人間を別の人間が見たときの言葉だ。

 

他人から見ると「理路整然としていて、言うこともいちいちもっとも」だが、何か違和感がある「ぼく」。

 

その「ぼく」は、「これはぼくの物語ではない」といっているが、小説は全て「ぼく」の主観、一人称で語られている。

 

すみれやミュウの身に起きた重要な体験が語られないのもそのためだ。

本当にこれがすみれの物語であるのであれば、すみれの1人称で、すみれの重要な体験が語られてもいいはずだが、それは物語中で語られることはない。

 

なぜか?

 

それは「スプートニクの恋人」は「ぼく」の物語だからだ。

 

「スプートニクの恋人」はすみれを中心に物語が展開するのは間違いないが、「すみれを通して語られる『ぼく』の物語」というのが正しい。

 

「これはぼくの物語ではない」といいながら、自分自身の物語を語っているある意味「信頼できない語り手」といえる。

まとめ

「スプートニクの恋人」は村上春樹の小説で度々登場するどこか別の空間、異世界、「あちら側」と呼ばれる場所が登場する。

著者のテーマが一貫しているためなんだろうね。

 

そういう異世界を論理立てて説明するのではなく、不可解な部分を残しながら語られるストーリーが村上春樹作品の魅力の一つ。

読む人によって、色々な読み方ができる余白を作ってるから解釈は様々。

 

長編小説だけど、ねじまき鳥クロニクルみたいに3冊あるわけじゃないので、初めて村上春樹作品を読む人にもお勧めだよ。

 

春先のモルダウ河みたいにね!