ハンバート友幸の庭

節約、ミニマリスト、商品レビューなどをするブログ

おすすめ!天才哲学者ショーペンハウアーの幸福論。名言だらけなので読んでおくべき一冊。

こんにちは友幸(@humberttomoyuki)です。

 

ショーペンハウアーの幸福についてを読み終えた。

「幸福についてー人生論」はキャッチーなタイトルが付いているが「余録と補遺」という著書から「処世術箴言」を翻訳したものになる。

 

ショーペンハウアーは東洋哲学に影響を受けているため、断捨離などを行うシンプルライフやミニリストと相性がいい。

 

今回はミニマリストと絡めてショーペンハウアーの名言を紹介するよ。

そもそもショーペンハウアーって誰?

ショーペンハウアーは19世紀のドイツの哲学者。

ショーペンハウエルとも呼ばれる。

 

プラトン、カントを学び、30歳で主著「意志と表象としての世界」を完成させる。

厭世的な価値観はニーチェやトーマス・マンなどの後の哲学者、作家などに大きな影響を与えた。

 若くして代表作を仕上げた天才である。

 

「余録と補遺」は「意志と表象としての世界」などの彼の哲学世界の理解を深めるための注釈として書かれている。

幸福についての大前提

ショーペンハウアーはまず最初にこう語る。

 幸福な生活とは何かといえば、冷静にとっくりと考えてみた上で、生きていないよりは断然ましだと言えるような生活のことである。

幸福な生活をこんなふうに考えれば、幸せな生活そのものが動機になっているのであって、単に死の恐怖が動機になっているのではない。

そして人生の動機が「幸福な生活」にあることを、人間生来の迷妄であるとぶったぎる。

人生がこういった生活の概念に合致しているかどうか、この問に関しては、読者のご存知のとおり、わたしの哲学は否と答えるのである。

つまり幸福論はわたしの主著で非難しておいた人間生来の迷妄が基礎になっている。

いきなり結論でちゃいました。

幸せは勘違いです。

終了です。

 

しかし、そこは優しいショーペンハウアー。

カッコつきではあるが幸福論というものをあえて語ってくれるとのこと。

本論文は全体として、要するに普通一般の経験的な立場に終始し、この立場の迷妄を固執する意味において、大衆に順応した上に成り立つのである。

天才が降りてきた。

ありがとう!!

天才ショーペンハウアーの名言をミニマリスト視点で紹介

ショーペンハウアーは人生の享楽を自己の外部に求めることを否定する。

 

財産や位階、妻子、友人、社交界などに幸福を求めるとそれを失った時や幻滅した時に幸福がくずれさってしまうからだ。

 

かわりに精神的に優れた人は自分の内部にあるものに集中して、哲学、芸術、文学などの自己の思想と作品を作ること、人生の享楽を自己の内部に求めることを説く。

「種類の如何を問わず自己の特技を何者にも妨げられずに発揮できることこそ窮極の幸福である」

最高の幸福が自身の内部にある人間は、自分の外部の享楽には無関心になるため孤独な生活になる。

そして自己の内部の享楽を求めるために余暇を必要とする。

「幸福は余暇にある」とアリストテレスはいい、ディオゲネースの報告によれば「ソクラテスは余暇を人間の所有するもののなかで最もすばらしいものだと讃えた」。

反対に人生の外部に享楽を求める人は退屈にならざるを得ない。

俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。

俗物のとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。

したがって牡蠣にシャンペンといったところが人生の花で、肉体的な快楽を手にすることだけが人生の目的なのだ。

この目的のために、忙しくしている間は結構幸福だが、

財産がはじめから与えれれていれば、のっぴきならぬ退屈におちいってしまう。そうなると手当たり次第思いつくままに試みて退屈をしのごうとする。しかしどんなことをしてみたところで、精神的な欲望がないために、精神的な享楽ができないのであれば、退屈しのぎの目的を十分に達することはできない。

つまり、精神的な享楽がなければ移り変わる現実を相手に退屈を味わうことになる。

苦痛がない状態が幸福

 私はアリストテレースが『ニコマコス倫理学』で何かの折に表明した「賢者は快楽を求めず、苦痛なきを求める」という命題が、およそ処世哲学の最高原則だと考える。

享楽や幸福はそれを手にしているときは意識しない消極的なものだが、苦痛は積極的に影響をおよぼす。

健康な人が身体を壊した時、健康な時が幸福であったと思うことを考えればわかりやすい。

 

幸福とは苦痛や苦悩がない状態のことである。

しかし人間は苦痛や苦悩を耐えず生み出す。

大きな苦痛があるときは小さな苦痛のことは忘れているが、大きな苦痛が解消した途端に小さな苦痛が顔を出す。

 

この世界は苦痛の連続でできており、苦痛のない短い状態のことを幸福と呼ぶ。

だからできるだけ苦痛の少ないように行動することを選ぶべき、というわけだ。

むしろ幸福論という名称そのものが粉飾的な表現なのであって、「幸福に生きる」ということは「あまり不幸でなく」すなわち我慢のなる程度に生きるという意味に解すべきものであるということから幸福論の教えがはじまるのでなければならない。

現代風にいうなら「好きなことをするよりも嫌なこと、やりたくないことをしないようにする」というところだろうか。

この「好きなこと」は自分の外側に幸福を求めるという意味。

そうじゃないと「自分の内に享楽を求める」という言葉と矛盾するからね。

節約するミニマリストの参考になる言葉

人間の生活は、どんな形をとっても、あばら屋で過ごしても宮廷で過ごしても修道院で過ごしても軍隊で過ごしても、どのみち同じ要素でできたもので、したがって大体においては、いずこも同じ生活である。

わたしやあなたが持っているものは必要ないのかもしれない。

広い家に住んでも狭い家に住んでも幸福度は同じかもしれない。

 

同じであれば、現実的な問題として物を捨てて狭い家に住んだほうがコストが下がるはずだ。

コストを下げることができるのであれば、稼ぐお金を減らすことができ働く時間を少なくできる。

 

結果として仕事のストレス=苦痛を減らすことができる。

苦手な人への対処法

怒りでも憎しみでも言葉や表情に表すのは、無益である。危険である。愚かである。笑止である。低級である。だから怒りでも憎しみでも行為に表す以外に、決して表してはいけない

 自分にとってストレスになる人には何も言わず、関わらないようにする。

人を変えるのはとても難しいし、その際の摩擦はとてもストレスになる。

自分からアクションを起こして関わるのではなく、関わらないように全力を尽くそう。

まとめ

  1. 自分の外側に期待せず、自身の好きなことに打ち込む。

  2. できるだけ嫌なことをしないようにする。

  3. 好きなことが見つからない場合、嫌いなことをしないことに集中する。

  4. 人は変えようとしても変わらない。

  5. この世はどう生きようが大差ない。

 

5以外は安っぽい自己啓発書のような結論になってしまった。

まぁ数行にまとめられるなら本にする必要が無いわけで、結局は本を読むのが一番。

 

「5.この世はどう生きようが大差ない」の補足

ショーペンハウアーはこの世界は意志(物自体、イデアに近い)の表象(意志が認識できる形であらわれたもの)であり、苦痛と退屈の繰り返す地獄のようなものだと書いている。

 

その中にいる人間は等しく苦痛を被る。

どんな人間もそこからは逃れられない。

そんなところからこの世はどう生きようが大差ないという結論に至っている。

 

詳しくは意志と表象の世界を参照、というかまずそちらから読む方を勧める。

「幸福について」はあくまで補遺なのだから。

関連記事